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バンクシアの響き

時代が急展開している今、
人間社会の新旧交代にまつわる出来事の本質をトータルヘルスデザイン 近藤洋一が考察します。

アナログとデジタル


日本人は、自然の懐に抱かれて自然に寄り添って生きる「アナログ」な日常生活を送っていた
農耕民族でした。明治時代になって、西欧社会で開発された「デジタル」な機械文明が、「文明
開化」の名のもとに導入されたわけですが、当時の人々にとっては、いわば青天の霹靂、すぐに
なじむことは難しかったのではないでしょうか?

 デジタルの語源は「デジット(=指)」だと言われています。「1,2,3…」と指折り数え
る方式で数を表記するやり方ですから、時間的、空間的に連続して変化する「アナログ」な自然
界とは相いれない表現方法です。

私たち一般人が、「デジタル」という言葉を意識的に使い始めたのは、デジタル時計が市場に
出回り始めた1970年代だったように思います。当時、女性デザイナーがデジタル時計を見て
「何? あの腕時計! 変な時計ね! 」と気に入らない ような顔をしていたのが印象的でした。
確かに初めてデジタル時計を目にしたときは、なんだか異様な感じがしたものでした。

19世紀後半、アメリカで大ヒットしたと伝えられる「大きな古時計」という曲からは、アナロ
グ時計 でないと表現できないロマンが感じられるのではないでしょうか?

以下、ご紹介させていただきます。

イギリスの、あるホテルのロビーに大きな木製の時計が置かれていたのですが、オーナーの
ジェンキンスさんが亡くなったのと同時刻11時05分に、その時計の針は動きを止めてしまった
のだそうです。それ以来、この大きな時計は、11時05分を指したまま、そのホテルのロビーに
置かれていたそうです。

大きなのっぽの古時計
・・・
百年いつも動いていた
・・・
いまはもう動かない
・・・



Photo by (c)Tomo.Yun 
http://www.yunphoto.net

百年休まずに
チク タク チク タク
・・・
いまはもう動かない
・・・

この「大きな古時計」がデジタル時計だとしたら、こんな曲は浮かんでこないのではないで
しょうか?

脱マニュアル

 

世の中、機械化が進展し都会化が進むと、私たちの生活に占める「デジタル」の要素が増大
してくることは避けられないと言ってよいと思います。

 デジタル化の進んだマンションなどの高層ビルで生活すると、温度調節も照明も思いのまま
ですし、また通勤に利用している電車の発着も寸分の狂いもなく正確に運行しているものです
から、この世のことは「予測でき、コントロールできる」という錯覚にとらわれてしまう可能
性が高くなるように思われます。

 いかに機械化、都会化が進んでも、人間は自然の中で生かされている存在であるという事実
は変わることはありませんので、何事も「予測でき、コントロールできる」という前提に立っ
て、リスクの少ない「デジタル」な生き方をすればするほど、社会の活力は失われていくこと
になりかねません。それどころか、いつ何が起こるか予測できないのが、懐の深い大自然のあ
りようです。

 こんな時だからこそ、大自然の中で、ハプニングを楽しみつつ、「イキイキわくわく生きる」
ことが求められているのではないでしょうか?
 古来伝わる「地震、雷、火事、親父」という「アナログ」な表現が意外に色あせず、通用す
るのにも驚かされますね。

 農業や漁業が仕事の中心であった時代には、生活そのものが自然の中にありました。何事も
やってみないとわからない、というのが世の常であったわけですから、「望郷の念、親子の情」
など、言わば「寅さんの世界」が息づいていたと言ってよいと思います。

 時代の変化と共に変化し、消え去っていくマニュアルではなく、聖書や仏典など何百年、
何千年たっても古びることなく、生き続けている考え方、生き方を身につけることが理想の
姿であったわけです。

 「アナログ」はアンチロジックを意味していると言われています。論理を超越した絶対的
な価値、すなわち自然界を創造した天然の価値こそ「アナログ」の真髄です。無限に広がる
天然の懐に抱かれて、イキイキわくわく生きていくことこそが人生最大の価値であった…
そんな時代の生き方に心を傾けてみるのも意味のあることだと思うのです。

部分と全体

学歴、職業、財産など、他人と比較して相対的に決まってくる「デジタル」な価値が、人
生の全てであるかのように考えられていた大競争時代は、もう過ぎ去ってしまったと言って
よいと思います。
 
  日本の場合ですと、明治以来百数十年続いた資本主義という、競争を前提とした経済シ
ステムは、 もうその役割を終えてしまったと考えればよいと思います。
  
 「どんな仕事をし、どんな人生を送りたいのか?」という視点を大切にして、「自分の
存在が誰かの喜びになる」「あなたの幸せが私の幸せ」を実感して生きていく ― マン
ネリに陥ることのない、そんな「アナログ」な生き方が求められる時代がやってきている
のではないでしょうか?
 
 私事で恐縮ですが、50年ほど前、テトロンなどの合成繊維の感触がもう一つよくない
ということで、着心地のよい風合いにしようという研究をしていたことがありました。
服の風合いということについては全くの素人だったものですから、強度、伸び、すべり
やすさ、光沢など、その生地の特性を様々な物理的な要素に分解し、測定し総合化しよ
うということになりました。
 
 ところが処理した生地をその道の専門家にみてもらいますと、手のひらでその生地を
サッと握っただけで、「これはあきまへんな」という答えが返ってきたのには、びっく
りしたものです。
 物の価値を部分的な要素に分解し、それを足し算することによって、モノの総合的な
価値を把握することはできないという貴重な体験をさせていただいたのでした。

学校教育でもそうですね。いくらすべての教科でオール10をとっていても、そのこと
でその子の人格を測ることはできないのではないでしょうか?
人間の特性をいくら精密に細かく分解してみても、その部分の総和から人間性を把握
することはできないというところに自然の摂理があるのですね。

「デジタル」が悪で、「アナログ」が善であると言うのではありません。便利になる
からと言って機械化に身をまかせるのではなく、「アナログ」としての自然の価値を十
分にエンジョイする一方で、「デジタル」に進化する現代生活を楽しみたいものだと思
うのです。