トータルヘルスデザイン公式サイト

HOME > 今月のコラム > バンクシアの響き

バンクシアの響き

時代が急展開している今、
人間社会の新旧交代にまつわる出来事の本質をトータルヘルスデザイン 近藤洋一が考察します。

イノチを考える



青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、   
昼のお星は眼にみえぬ。


見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、


瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。


見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

 (金子みすゞ 「星とたんぽぽ」)


 昼間の星は実在しているにもかかわらず、私たちの眼には見えませんね。
そんな当たり前のことに気づいて、こんな素晴らしい詩が出来上がったのですね。同じようなことが、日常的に、私たちの生活の様々なシーンで起こっているのではないでしょうか?

原因と結果

私たちは学校で、科学的に認められた知識を前提とした教育を受けていますので、昼間の星が見えないことについては、子どもでも「なるほどな」と納得してしまいます。
  しかし日常生活では、起こる出来事の「因果関係」が明確に整っているとは限りません。何らかのハプニングあるいはトラブルに巻き込まれ、物事がスムーズに進まない事態に直面すると、何が「原因」でこんな「結果」になってしまったのか、明確でなく、イライラすることがあるものです。
  たとえば、道路わきに車を止めて休んでいたところ、後ろからやってきた車に追突されたとしましょう。
そんな時、「そんなところに止まっているから悪いのだ」と言われたとしたら納得できませんね。「前方に車が停車していることに気づかなかったことがそもそもの《原因》で、追突事故という《結果》を引き起こしたのだ。悪いのはお前の方ではないか」という論理で、事態の収拾に臨
むのではないでしょうか?
  この出来事をもう少し別の角度から見てみますと「こんなに見通しの良いところで、どうしてAさんはBさんの車に気づかなかったのだろう。こんな状況で事故が起きるというのは考えにくいことだ。
  お互い見ず知らずの、AさんとBさんは、今世どこかで出会う必要があったのではないだろうか? 二人の顕在意識とは別次元の力が働いて“この時、この場”で事故という形で、二人は《縁》を結ぶことになったのではないか」という見方も成り立つのではないでしょうか?
  「袖触れ合うも他生の《縁》」という表現があります。人生の道中、私たちは様々な人と出会い、様々な体験を積み重ねる中でいろいろな《縁》が生まれ、人生模様が編み出されていきます。
  私たちの人生、私たちの社会は、見知らぬ人とのご縁を積み重ねる中で、人間関係が形成されていくわけですが、その出会いはひょっとすると、過去世あるいは未来生の《縁》なのかもしれない。そうだと
したら、その《縁》に感謝して生きていこうではないか・・・昔の人はそんなことをイメージしつつ、明るく、楽しく、人のお役に立つ人生を送るための知恵を絞っていたのかもしれませんね。
  高知県に行きますと、四万十川が悠々と流れていく風景に出合います。そんな悠揚迫らぬ大河なのですが、上流をたどって山道を登って行きますと、勢いよく湧き出し
た水が谷川となって流れていく風景に出合います。この小さな源泉が「因」となってあの大きな四万十川に成長していく、すなわち「果」となるのですからびっくりです。
  この谷川の水が、道中で限りないほどの水と出合い、《縁》を結んだ結果、あんな大きな川になったというわけです。

イノチ ― 科学と宗教

「水を飲むときには井戸を掘った人のことを思いなさい」という箴言があります。「何て美味しい水なんだろう。忘れてならないことは、井戸を掘ってくれた人のおかげで、今こうして美味しい水が飲めるということだ。《縁》を大切にすることだよ」という教えが代々引き継がれてきたのだと思います。
  私たちは古典的なニュートン物理学に基づく科学教育、すなわち自然界を根本的に異なった二つのテーマ「もの」と「こころ」に分けるという考え方に基づく教育を受けて育ちました。
  客観性を重視する考え方が基本になりますから、物理的な世界の延長線上に立って、生命現象や人間の心理、行動を研究するということになります。従来の科学は「私は何のために生きているのだろうか?」という問いかけに対しては極めて無力なわけです。
  2017年1月、発生生物学の世界的権威・岡田節人博士がお亡くなりになりました。20 年ほど前のことになりますが、岡田博士は立花隆氏との対談で「人間の死とは、どういうものですか。細胞の死を意味するのですか」という質問に対し
「そういうものじゃありませんね。細胞同士の話し合いが途絶えるとき、それが死といえるのかもしれない」と答えられたという記事を読みました。その記事は、花園大学学長として活躍された故・盛永宗興老
師と岡田博士の対談記事だったのですが、さらに老師が「生物のカギを握っているDNAが無生物の中からどのようにして発生してきたのですか? DNAの前にどのような物質があったのですか?」という質問をされたところ、岡田博士は、「実証はされておりませんが、〈いのち〉というものはただ一つ、一回しか生ま
れたことがないという認識は、今日、発生学の方では常識になっております」と答えておられます。
  一方仏教の世界では、白隠禅師の「衆生、本来、仏なり」という言葉が伝わっています。
  「衆生というのは、限られた条件の中で閉じ込められ、自分はこういう人間だと思い込むことによって不自由になっている存在。仏というのは、限りなく自由な〈いのち〉の現れであったという事実を自覚した人を指す言葉」なのだそうです。
  〈いのち〉を認識するという点において、科学と宗教が同じ地点に立っているということになりますね。



参考文献:盛永宗興「お前は誰か―若き人びとへ」(財)禅文化研究所



※『バンクシアブックス(金子みすゞ 日本人の原風景)』は、こちらから click >>>